
「やれるまでやる」
どこかで耳にしたことがあるし、何かで読んだような気もする。
書の道へ進み、自分の師匠を決め、
その師匠からも幾度かおっしゃっていただいた記憶がある。
でもこれが、随分とわからなかった。
いや、当然、
「言葉の意味」
は理解できるし、そのとおりだとも思う。
でも実際に、
「やれるまでやればいいだけだ」
と言われると、まったく釈然としなかった。
やり方がわからない。
そこまでやり切る自信がない。
やれるかどうかわからない。
だから、やれるまでやれと言うのはちょっと・・・
しかしこれは、
よくよく考えると言い訳としてはおかしいと、
随分トシを取ってから気付くようになった。
やり方がわからなければ・・・
やれている人に聞くなり実演してもらうなり、
自分で調べるなり、やれることがある。
やり切る自信がないのなら、
一度やってみればいいじゃないか。
自信があろうがなかろうが、
できるできないとは直接は関係がないものだ。
やれるかどうかわからないなら、
やればわかるじゃないか。
自分の心に浮かんでくる、こんな言い訳を、
一つずつ見つめ、つぶしていくことを繰り返して、
結局たどり着いたのは・・・
そもそも・・・
そこまで頑張るほどの決意とか、覚悟とか、
そういうのがないからじゃないか・・・
というものだった。
そこまで自分のエネルギーを使いたくない。
どれだけ労力が必要か、見当もつかないものに取り組みたくない。
何の保証もないものに、時間もお金も労力も使いたくない。
煮え切らない、熱意とまでいかない気持ち。
できるようになりゃ嬉しいかもだけど、
そこまでのめり込むほど、まだ決まってない。
「煮え切らない」
イヤな言葉だ。
煮え切ってるのかどうかは、外からはわからなくて、
でもハッキリかおぼろげか、程度の差はあれど・・・
「煮え切らない」
と、自分自身にはどこかでわかってる。
ボクにとっての書道なんていつもそうだったし、何なら今でもそう。
師匠からあるとき、
「この道を進むなら、二足の草鞋は履けない」
そう言われたことがあった。
そのときのボクは、ふんふんと少し興奮しながら、
その言葉自体に酔って、目をキラキラさせながら聞いていたと思う。
そしてその、
「二足の草鞋は履けない」
状況がどんなものなのかというのは、
それまでのボク自信の人生での経験、
見聞してきたものごとから推測することしかできない。
そしてそして、
自分が経験してきた程度の経験からくる尺度など、
まるで通用しない現実を、否応なく突きつけられる。
そんな状況でボクは、冒頭の命題にぶち当たる。
ここまで長い間、煮え切らない、
幾つもの草鞋をテキトーに履いてきたボクは、
前述のように、
あれやこれやと中身のない言い訳をしようとしてきた。
でも目の前に起こってくる現実は、
「で?どうするの?」
「やるの?やらないの?ごまかすの?」
そんなことを、ボクに突きつけ続ける。
こういう状況になって、改めて自分は・・・
本当にそれをしたいのか?
本当にそうありたいのか?
本当はどうなのよ?
と、自分の本音、本心と深く会話することになる。
そんな苦しい会話を自分と幾度となくしてきたし、
今だってしょっちゅう会話するが、
少なくともボクの場合・・・
「人間とは、自分とは何かを知る探究」
「そのためのツールとしての書の道の探究」
これらは、何度痛い目を見ても、
どれだけ辛い思いを味わっても、
あぁ、こりゃあ絶対あきらめられないわ。
そういう結論になる。
ボクは傑物というには程遠いから、
いきなり人生全Bet!!
ということは、なかなかできなかった。
ものごとを早くに成していく人間は、
意外とカンタンに、大きなものをBetして、
それに見合った頑張りをしていってしまう。
そんなものにも、ものすごく憧れた。
それでもボクはボクで、
そのとき精一杯の決意と覚悟をBetして、
目の前にやってきたものごとを判断して、
まだ決意と覚悟が足りないのか、とさらにBetして、
目の前にやってきたものごとを判断して、
更にその先に、その奥に広がりがあることに気付いて、
そこへ旅立つ決意と覚悟を深めて更にBetして・・・
そんなことを繰り返してきて、最近ようやく・・・
「やれるまでやる」
ということが、少しわかったように思う。
今誰かに、
「やれるまでやればいいじゃん」
と言われれば、
おぉそうか、そりゃそうだ。
ではやれるまでやろう。
と、なる。
それをやれるようになることが、自分が本当に心の奥の奥、
魂の願いであれば、恐らくなんだかんだありながらも、
やれるまでやるだろう。

実際にやれるのかは、知らん(笑)。
本当は・・・
やれる、という結果よりも、
やれるまでやる、その過程に、
その道のりに宝物が隠されているのかもしれないね?
