秘めたるものの美しきことよ

派手で目立つものは、割と簡単につくれる。

大きく、煌びやかで、おおげさで、強い主張。

大声をあげればよいのだから。



でも美しいものはそうはいかない。

大きくなくても、ぴかぴかしていなくても、

控えめでも、伝わる強さ。


例えば、ボクが敬愛する「棟方志功」という版画家がいる。

恐らくかなりの人が、その作品をどこかで一度は目にしているはずだ。


棟方先生の作品は、派手で目立つかといえば、そうではない。

どちらかと言えば、極めて地味だという印象を持つのではないだろうか?




ではそれは、果たして美しくないか?

そんなことは断じてない。

むしろ恐ろしく美しい。



もちろん、ボク如きがアレコレ言及するまでもない、

突出した技術やセンスに立脚した作品たちではある。



だがそんなものを超越した、なにか。

技だとか構図だとか、もちろんそれらは大切なのだけれど、

そういうことじゃない。




その人の生き方、人生観。


いや。

もっと裸。

もっとむき出し。

もっとそのまま。

生命そのもの。



生身の人間、


「棟方志功そのもの」


がそこに視える。



そこにはっきりと存在する推し量りようのない、

力というかエネルギーというか。



そういうものに、人の心や精神、魂が何かを感じ入るのだ。



ボクはそれを


「美しい」


と表現する。



そしてボクは、そういうものになりたい。

そういうものでありたい。



だから鍛え上げる。

だからひたすら「美しさ」にこだわる。



そしてその果て・・・


「美しさ」


その言葉にこだわることがなくなった時には、

それが意識からふっと消え去った暁には、



本当に自分の、


「美しさ」


が理解できるのではないかと思っている。




果てしない道程。


しかし、なにより希望に満ちた行程。


待ってろ「美しさ」。

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